現在まで、多くのスポーツ・多くの一般の方のトレーニングに携わり、色々な経験をしてきました。
その中で私が感じる事は、『基礎体力』の弱さです。
基礎体力と言っても、力がある・飛距離がある・足が速い・持久力があるといった事ではなく、いかに順応できるか・動きがスムーズであるか・効率がよいかをテーマにトレーニング指導を行ないます。
日本では、スポーツ経験の一生涯同じ競技を行なう事が多いですが、アメリカでは一貫して同じスポーツをする事はほとんどありません。色んな競技をする事により、可能性を探し求める・動きを身につける事ができます。
一貫したスポーツをする事は悪い事ではありません。専門家から様々な正しいトレーニング指導を受ける事により、もっと色々な動きを身につけ、より効率的にトレーニングを行なえば、素晴らしいアスリートになれる事をお約束します。
アスリートだけではなく、スポーツをしていない一般の方の運動指導も行なえますので、気軽にご相談下さい。
大分工業高校時代の甲子園出場はならなかったが、3年夏の大分県大会でベスト8入りを果たした。卒業後は三菱自動車川崎(現・三菱ふそう川崎)に入社したが、その後郷里の大分に戻り、大分硬式野球倶楽部(現・新日鐵大分硬式野球同好会)で野球を続けた。
右足を高く上げて始動するフォームから、140km/hを超える速球と「まともに打たれたことはない」と豪語するほどの切れを誇るスライダーを投げ下ろした。年を追って制球力も安定し、大分硬式野球倶楽部の左腕エースとして活躍した。自チームでの都市対抗野球大会出場は叶わなかったが、1999年と2000年には三菱重工長崎の補強選手として出場し、それぞれ準優勝、ベスト8に貢献した。
2000年のドラフト8位で横浜ベイスターズに指名され、29歳・妻子連れでの入団を決めた。29歳4ヶ月でのドラフト指名は市村則紀(30歳5ヶ月)に続く高齢入団として話題となった。
8位指名ながらも即戦力として期待され、中継ぎ・ワンポイントリリーフとして多く起用された。また、プロ入りの際に左打者対策としてスリークオータにしたのも吉と出た。1年目の2001年には53試合、翌2002年も44試合に登板した。
しかし2003年は監督交代に自身の怪我も重なって登板数が激減し(14試合)、同年オフに金銭トレードで阪神タイガースに移籍した。翌2004年は一軍昇格目前でまたも故障し、再度の一軍登板を果たせぬまま戦力外通告を受けた。
2006年から横浜のスカウト(九州担当)を務めたが、球団の常駐スカウトを置かないという方針転換を受けて2007年オフに退団。